思い出

※僕が今迄関わった歌劇場、コンサート・ホール等をエピソードを交えながら紹介したいと思います。

ミラノ、カーザ・ヴェルディ Casa Verdi, Milano

Casa Verdi 僕が1989年6月に渡伊後、初めてコンサートに出演したのは翌年の2月11日、ミラノにある音楽家の為の養老院「カーザ・ヴェルディ」の記念ホールでした。この建物のまん前、ボナッローティ広場 Piazza Bonarroti の中央にヴェルディの像がこちらを向いて建っていますが、その下がヴェルディのお墓です。

住んでいる方達が皆音楽家で、何年にも亘りイタリアを初め世界の舞台で活躍していた方も中にはいらっしゃいます。1984年に伊・仏の合同で制作されたドキュメント番組『トスカの接吻』には、この方達が沢山出演していて、とても興味深かいです。また、コンサートの前に何度かリハーサルにも行きましたが、元歌手のおじいちゃんが寄って来て色々アドバイスをしてくれました。

伴奏をしてくださったのは、当時習っていたロゼッタ・エリー女史です。アリアはドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」と、チレアの歌劇「アルルの女」から「フェデリーコの嘆き」の2曲を選曲しましたが、この2曲の曲順を巡って一悶着ありました。
実は僕は曲順を替えて欲しかったのですが、先生にはまるで聞き入れてもらえず、本番ではちょっと辛い思いをしたのです。
やっぱり僕にも調子に乗りやすい曲と、乗り難い曲と言うのがあって、特にコンサートでは曲順によって声の調子もかなり変わってきます。勿論、それではプロとしていけないんでしょうけどね。
と言うわけでコンサートの合間に「テノールは今日は余り調子が良くない」だとか、「風邪を引いている」みたいなアナウンスが入り、ちょっぴり不名誉な思いをしてしまいました。幸い、尻上がりに調子は良くなり、ラストに歌ったヴェルディの歌劇「リゴレット」第3幕からの四重唱が終わった時には、 大喝采を浴びました。また、コンサート終了後には楽屋に沢山の方がお見えになり、お褒めの言葉を頂きました。
後にも先にもこの「カーザ・ヴェルディ」で歌ったのはこの一回だけですが、コンクールやオーディションの様に物凄く緊張したコンサートでした。なにせお客さんの殆どが音楽家だったのですから...。

フュルト市立歌劇場 Stadttheater, Fürth

Stadttheater Fürth 僕がドイツ、ニュルンベルク近郊のフュルト市立歌劇場でプッチーニの歌劇「蝶々夫人」のゴロー役を歌いヨーロッパ・デビューしたのは、1990年9月19日でした。20世紀初頭に建設された、小さいながらもイタリア様式の綺麗な劇場でした。

当地に赴いた頃は、まだ夏の残暑が厳しい9月の初めでしたが、それも二週目を迎える頃には急に寒くなり、慌てて長袖の洋服を買ったのを覚えています。

演出は当時ウィーン国立歌劇場付きだった、リタ・ランティエーリと言うイタリア系オーストリア人の女性でした。彼女は音楽稽古の時から立ち会っていましたが、イタリア語の発音にとても敏感で、特に日本人の発音する「R」が弱いのと、「U」の母音の発音が狭い事を逐一指摘していました。
演出そのものはオーソドックスでした。ところが、初めはお相撲さんみたいなカツラだったんですけど、その後「子連れ狼」に出て来る大五郎みたいに、頭のてっぺんでチョンチョリを結んで、それが演出家にはとても受けたみたいだったんですが、僕は物凄く恥ずしかったですね。公演そのものはとても好評で良かったんですけど...。

ベルゲン、グリークハッレン Grieghallen, Bergen

Grieghallen 僕が歌ったノルウェーの劇場の中で印象に残っているのは、ベルゲンのグリークハッレンと言う劇場でした。知っている方もいらっしゃると思いますが、この町はノルウェーの代表的な作曲家エドワード・グリークの町でもあります。

リハーサルの合間を縫って、グリークが創作活動を行ったと言う家も見学に行きました。現在は「グリーク博物館」として一般に公開されています。また、すぐ近くにはグリーク自身と奥さんのお墓もありました。
彼の歌曲にソプラノ歌手だった奥さんの為に作曲したと言う「君を愛す」 Ich liebe dich と言う曲がありますが、なんか妙に頷けるような感じを覚えました。

ベルゲンはまた、フィヨルド観光の拠点としても有名で、新鮮な魚介類も豊富でとても美味しかったです。そして、北欧全般に言えるのではないかと思うんですけど、朝から肉や魚が並び、とても朝食とは思えないほどとても豪華です。南欧のコーヒーとクロワッサンだけと言う朝食に慣れているとびっくりします。朝たっぷり食べて、日暮れまで戻って来ない漁師達の習慣が未だに残っているのかも知れません。

グリークハッレンはとても大きなホールで、ベルゲン・フィルハーモニック・オーケストラの本拠地でもあります。客席もさることながら、舞台裏が物凄く広くて、普通の劇場の3倍くらいはあるのではないかと思いました。

近年グリークハッレンは、ノルウェーの主要な統合文化、会議、展示会場としても利用さわれるほどに変貌したそうです。

ブレゲンツ祝祭大劇場 Festspielhaus, Bregenz

Festspielhaus スイスとドイツの国境にも近く、オーストリアの中でも最も西欧的と言われるブレゲンツは、ボーデン湖上に建てられたステージを使った夏のフェスティバルで国際的に有名です。

僕が歌ったのは冬のシーズンで、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」のゴロー役で祝祭大劇場の方でした。オフにはベルリン出身のコレペティに、モーツァルトの歌劇「魔笛」のタミーノをレッスンしてもらいました。ドイツ人から直々にドイツ・オペラを習うのは、イタリアに住んでいてはあまり機会がないので、とても良い勉強になりました。

ピンカートンを歌ったのは確かロシア人のテノールで、当時僕が持っていたゲーム・ボーイのテトリスが気に入ってしまい、彼の出番のない時は貸してあげたんですが、どうやらチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の音楽が琴線に触れたらしいです。それにテトリスは確かロシア人が考案したゲームでしたからね。

ワイマール国民劇場 Nationaltheater, Weimar

Nationaltheater ワイマールと言えば「ワイマール憲法」があまりに有名ですが、ここはまた、ゲーテ、シラー、ニーチェ、ショーペンハウエル、大バッハ、リスト、リヒャルト・シュトラウス等にゆかりの地でもあるんですね。
実際、「ワイマール憲法」が制定されたのもこの国民劇場でした。また、ゲーテが主宰して、シラーの「ウィリアム・テル」が初演された劇場でもあるんですね。劇場の前に建つ、ゲーテとシラーの銅像はとても印象的です。

僕がこの劇場で歌ったのは、1991年2月の事です。当時はもう既に東西ドイツが統一した後でしたが、実際にはまだまだ西とは比べ物にならないほど物価が安かった記憶があります。
ふらりと入ったCDショップでは、ホセ・カレーラスのCDがたったの5マルク(約500円)でした。勿論、この値段は一般市民にとってはかなり高額だった事でしょう。現在ならまだしも、当時は日本でもCD1枚2500円くらいしていた時代ですからね。レストランやビストロのお昼のメニューなんかは、お腹一杯食べてコーヒーも飲んで10マルクでお釣りがきたくらいでした。今ではそうは行かないんでしょうけど...。

カンタベリー、マーロー劇場 Marlowe Theatre, Canterbury

Marlowe Theatre 僕がイギリスで一番最初に歌ったのは、「カンタベリー物語」でも有名なカンタベリーにあるマーロー劇場でした。カンタベリーはイギリスにおけるキリスト教の総本山だそうで、英国国教会成立後も訪れる人は後を絶たないとか。

僕もオフにはカンタベリー大聖堂を訪問しました。ステンドグラスがとても美しく、他の内部の装飾もとても見事で、本当にここがイギリス?と疑ってしまうほどでした。

イギリスと言えば「午後のティー・タイム」。午後の4時頃になると、どこのティー・ルームも人で一杯になります。僕はコーヒー党なので、こんな時でもコーヒーを注文しますが、これが大失敗でした。なんと、ガラス製のティー・ポットに紅茶の葉っぱと同じ様に、挽いたコーヒー豆が入って出てきたんです。「所変われば品変わる」と言いますけど、あれだけはどうしても頂けなかったです。でも、イギリス人の同僚にしてみたら、それが当然のコーヒーの飲み方だったのですから、「どうして?」と僕の方がおかしいみたいに思われました。結局、僕には飲めませんでした...。

スウォンジー大劇場 Grand Theatre, Swansea

Grand Theatre ウェールズの南に位置するゴワー半島の付け根にあるスウォンジーの町。僕はウェールズ語は全然分かりませんが、sea と言う綴りなのに [zi:]と発音するのは、英語にはあまり見られないのではないかと思います。

僕がここに行ったのは3月の初めでしたが、本来ならまだまだ寒い季節。ところが、とても天気が良くて上着なしでいられるほど暖かかったのを覚えています。
ここもやはりイタリア様式の綺麗な劇場で、「ああ、オペラやってるな~」なんて気分が良かったですね。

バクストン歌劇場 Opera House, Buxton

Buxton Opera House 夏のフェスティバルでも知られるこの歌劇場は、イングランド中央部に位置したバクストンと言う町にあります。宿泊したホテルも劇場から歩いて2~3分ほどの場所にあり、行き来もとても便利でした。
そして、このホテルの内装がピラピラ装飾を施していて、いかにもイギリス的でした。
でも、イギリス滞在の時にいつも困ったのが、バスルーム。お湯と水の蛇口が何処のホテルでも別個になっていて、シャワーの温度調整が出来なかったのです。ところが、やはりこれが不便と感じるのは何も僕だけではなかった様で、町のスーパーにはY字型の「簡易シャワー・ホース」が売っていました。形は一見大きめの聴診器みたいでした。
これを発見した時は、一般家庭でもひょっとして同じ様に使い勝手が悪いのではないかと思いました。でも、骨董好きのイギリス人のことですから、この不便さ故にバスルームの配管を新しくしようなんて、全く考えないのかも知れませんね。

ミラノ・スカラ座 Teatro alla Scala, Milano

Teatro alla Scala 知る人ぞ知るオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座。僕がイタリアに滞在した80年代の終わりから90年代の半ばにかけてと言うのは、外国人歌手にとってとても困難な時期でした。ECの統合に伴い、イタリアの各歌劇場のシステムが変わった為です。
僕が渡伊したのは1989年6月でしたが、この年のスカラ座オペラ歌手養成所のオーディションが、EC以外の外国人にも門戸を開いた最後の年でした。
勿論、まだイタリアに入国したばかりでしたし、いずれはこのオーディションを受けてみたいとは思っていましたが、その時はこれが最後だったとは知る筈もありませんでした。
今でこそまた外国人枠が緩くなりましたが、当時は全キャストのうち、外国人の入れる枠はたったの20%でした。しかも、これは主役に限った事で、脇役は全部イタリア人のみでした。更にこれは、スカラ座を初めとするイタリアの第一級の歌劇場での話で、その1ランク下の劇場では、外国人枠は0%に近かったのです。特にデビューしたての若い歌手には難しかったです。

僕がソリストとしてスカラ座のオーディションを受けたのは、それから約2年後の27歳の時でした。当日は舞台はリハーサルで使用中だったので、劇場の上の方にあるリハーサル室でのオーディションでした。
スカラ座のオーディションを受けれると言うだけでもかなり緊張しましたけど、自分の周りを見渡すと凄そうな歌手が沢山いて更に緊張しました。
結果は、「残念ながら...」と言う事だったんですけど、あとでエージェントに話すと、「よく個人で受けさせて貰えたね。でも、ちゃんとエージェント通さないと彼らは取らないよ」と言われました。彼と当時のスカラ座の副監督が親しかったので、何がいけなかったのか詳しく聞いて貰ったんですが、「よく歌ってたけど、まだスカラ座で歌うには若過ぎるね。イタリア人だったらピアチェンツァ、コモ、ブレーシャなんかで歌ってある程度キャリアを積む事も 出来るんだけど、もう外国人には権利がないから残念だね。」と言われました。痛感。
「もはやイタリアの劇場で歌うのは自分には不可能に近いんだなあ」と、この頃から気持ちは他のヨーロッパ諸国を向き始めていました...。

インペリア、カヴール劇場 Teatro Cavour, Imperia

Teatro Cavour 僕のイタリアでの正式なオペラ・デビューは1991年11月、イタリアのリビエラ海岸サン・レモ近郊のインペリアにあるカヴール劇場で、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」のドン・バジリオ役でした。

当時、イタリアに於ける外国人歌手の活動がとても厳しい状況にあった中で、イタリアの劇場で歌う事がまだ容易だったのは、フェスティバルに於いてです。
所謂、晩秋から初夏にかけてのオペラ・シーズンと違い、これらのフェスティバルはその規制の範疇ではありませんでした。ヴェローナの有名なフェスティバルはその良い例です。
それでも、このオペラのキャストの中で、外国人が僕一人だったと言う事を一応付け加えておきます。

イタリアで一番多かった間違いは、ポスターやプログラムに印刷された僕の「姓」と「名」が、しばしば反対だった事です。イタリア人の姓は、ヴェルディ、プッチーニ、トスカニーニ等々、最後が「i」で終わる場合がとても多く、男性の名は、パオロ、マルコ、ジュリオ等々、「o」で終わり、女性は、マリア、アンジェラ、ルチア等々、「a」で終わる場合が多いのです。しかも、イタリアには稀ですが「Marita」という女性の名も存在します。
そう言うイタリア人にしてみたら当然、僕の名前は確かめるまでもなく、「Hidefumi」が姓、「Narita」が名となってしまうのです。
そして、記念すべきこのポスターも、残念ながら姓名が反対でした。事務局の人から「どうも申し訳ありませんでした」って謝られても、どうしようもないって言う感じ。もうあちこちに張ってあるポスターを訂正してくれ!と言う方が野暮と言うものでした。
お陰でこれ以降しばらくの間、自分の名前を相手がちゃんと理解するまで、何度でも言う癖が付いてしまいました...。

ローマ、聖クレメンテ教会 Basilica di San Clemente, Roma

San Clemente毎年7月になると、ローマのフォロ・ロマーノにほど近い聖クレメンテ教会の中庭には特設ステージが組まれ、連夜コンサートやオペラで賑わいます。
僕がここでモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」のフェランド役を歌ったのは、1992年のシーズン、第21回のローマ・フェスティバルに於いてでした。

ローマは、古代ローマ時代の名残りで、街中のいたる所に泉があり(その代表的なのが「トレヴィの泉」ですが)、日本のように湿気が多く、夏はとても暑いです。僕が滞在した約1ヶ月も、連日とても暑かったように記憶しています。
この聖クレメンテ教会の中庭にも噴水があり、昼間は水を湛えていますが、演奏の邪魔にならないように、本番のある夜には水源が閉められます。

僕が滞在した1992年7月には、丁度、プラシド・ドミンゴがローマでプッチーニの歌劇「トスカ」を台本に忠実に時間、場所を使って、生でテレビ放映するというプロジェクトをやっていて、第1幕に登場する聖アンドレア・デルラ・ヴァッレ教会と言うのはすぐ側だったので、撮影当日は、本物のドミンゴ見たさに観光客に混じって、沢山のローマ市民もやって来て、物凄い賑わいでした。

ニース、アクロポリス Acropolis, Nice

Acropolis 僕がニース市立歌劇場のオーディションを受けたのは、1993年5月初めの事でした。丁度、イタリア、ミラノの春のフェスティバル "Primavera Musicale" で、ドニゼッティの歌劇「ピグマリオーネ」のリハーサル中だったんですけど、幸い、2日間出番がなかったので行ってしまいました。
ミラノからニースは汽車で5時間半~6時間も掛かる距離ですが、ジェノバを過ぎるとリビエラ海岸が続き、インペリアに行った頃の事がとても懐かしく思い出されました。

フランス・デビューは予定ではもう少し前、同年7月にペリゴールのフェスティバルになる筈だったのですが、フランスでの就労許可の手続きに思いの外時間が掛かってしまい、結局、同年11月、ニース市立歌劇場の新シーズン2作目、サン・サーンスの歌劇「サムソンとダリラ」が最初でした。

シャルル・ガルニエ作のオペラ座の方は、当時、改修工事の真っ最中で、同歌劇場のシーズンは、市内にある他の各劇場に分散して行われていました。中でもとりわけ、アクロポリスは、国際会議や見本市などが開催される巨大な施設で、「サムソンとダリラ」が上演された大ホール「アポロン」(Apollon)は客席が2500席もあります。

学生の頃、フランス語をちょっと勉強したとは言え、初めの頃はフランス語があまりよく分からなくてとても苦労しました。幸い、ニースの土地柄かも知れませんが、イタリア語が出来る人が多く、また、オペラ座にもイタリア人の同僚がいて、よく手伝ってくれたのでとても助かりました。

ニース、オペラ座 Opéra de Nice

Opéra de Nice 1776年開場の同劇場は、1881年に「ランメルムーアのルチア」の公演中に、突然のガス爆発と共に炎上し大惨事を招きました。
現在の劇場は1885年に新装されたもので、内装はパリ・オペラ座やモンテ・カルロ歌劇場等も手掛けたシャルル・ガルニエによるものです。

僕がやっと同劇場の舞台を踏んだのは、フランス・デビューの翌年1994年で、内装の改装工事終了後の間もない頃でした。
夏休み最終日だった同年8月31日の夕方、突然オペラ座の副監督から電話があり、翌日から「ドン・ジョヴァンニ」のリハーサルに来るように言われたのです。ドン・オッターヴィオ役を歌う筈のテノールが、リハーサルの全日程にいないからその間の代役が必要だという事でした。突然の出来事にとても動転しましたが、当時、同役のオーディションが他の劇場で予定されていて、丁度暗譜が出来ていたので助かりました。

翌日は他のソリストや演出家と顔合わせの後、早速リハーサルが始まりました。期間中通して皆和気あいあいとして、とても良い雰囲気の中で仕事をする事が出来ました。皆僕に「1回くらい本番歌わせてくれればいいのに...」と言ってくれました。代役は万が一の時の為ですから、本役と同じかそれ以上に体調にも気を配らなくてはならず大変なのです。

そして、新監督として就任したジャン・アルベール・カルティエ氏の第一作目のオペラは、同年10月に公演されたヴェルディの「二人のフォスカリ」でした。ミラノ・スカラ座との共作という事で、衣装、舞台装置も同じものを使いました。衣装は奇しくもミラノで同門だったテノールのエルネスト・ガヴァッツィの物でした。意識した事なかったんですけど、似た様なサイズだったんですね。
舞台はスカラ座に比べるとニースのオペラ座はかなり小さいので、装置は同じ様に配置する事は出来ず、一部省略したり、真っ直ぐのところを斜めに置いてました。
そして演出は、スカラ座と同じくピエール・ルイジ・ピッツィ氏でしたが、イタリア語でやり取りが出来てとても楽でした。お陰で、期間中にローマでコンサートがあって1日だけリハーサルを休まなければならなかった時も、何とかそれで切り抜けられたし...。

ローマ、聖マルコ教会 Basilica di San Marco, Roma

Basilica di San Marco ローマで最も古い教会の1つ、聖マルコ教会へ赴いたのは、ダストルガの「スターバト・マーテル」のCD発売を記念するコンサートが開かれた1994年の事でした。
その頃、僕はニース歌劇場で「二人のフォスカリ」のリハーサル中だったので、コンサート当日は午前中のリハーサルが終わってから大急ぎでローマへ飛び、フィウミチーノ空港からはタクシーで教会へ駆け付け、翌朝も早々にニースへ戻らなければならないと言うとても慌しい日程でした。それでも、久し振りに仲間達と共に過ごした一夜は、演奏の出来もさることながら、とても懐かしく、ノスタルジックな気分に浸ることが出来ました。

オランジュ、古代劇場 Chorégies d'Orange

Chorégies d'Orange ニース市立歌劇場にいた頃、1994年に同劇場のメンバーとして、ヴェルディの歌劇「ナブッコ」に参加しました。
古代ローマ時代の遺跡を舞台にしたオペラ公演は、イタリアのヴェローナ野外劇場やローマのカラカラ遺跡が有名ですが、ここオランジュの古代劇場もまた夏のシーズンには欠かせない劇場であり、1981年には「オランジュのローマ劇場とその周辺の凱旋門」として、ユネスコの世界遺産に登録されたそうです。

リハーサルがオフの時には、近郊のアヴィニョンへ観光に行き、「橋の上で輪になって踊ろう~♪」の歌で有名なサン・ベネゼ橋 Pont St Bénézet を見に行ったりしました。
ところが、この橋って歌で歌われているほどには大きくないし、結構危険そうでした。聞くところによると、ローヌ川の氾濫によって今迄に何度も崩壊し、その度に修復を続けてきたのだそうです。

話をオランジュに戻しますが、この古代劇場は紀元前1世紀、ローマ皇帝アウグストゥス時代に建設されたもので、正面(ファサード)は、37メートルもの高さがあります。また、アントニヌス・ピウス帝時代の2世紀に装飾が加えられたそうです。そして、半円形の階段席には、約1万人の観客を収容することが可能です。
勿論、野外劇場なので雨が降ってしまうと公演は延期、もしくは最悪の場合中止になってしまいますが、7月のこの地方は多少の夕立はあっても殆どの場合中止になる事はありません。実際、「ナブッコ」の全公演も滞りなく行われましたし、第三幕の有名な合唱「ゆけ!わが想いよ、金色の翼に乗って」 "Va, pensiero..." は、アンコールを受ける等、毎公演とても素晴らしい公演でした。

モンペリエ、コールム Le CORUM, Montpellier

Corum 夏にラジオ・フランスのフェスティバルが開かれる南仏のモンペリエへは、やはりニース市立歌劇場のメンバーとして赴きました。
モンペリエにはオペラ・コメディー Opéra Comédie と言う、とても綺麗なオペラ座がありますが、演目によっては、普段医学会議や化学関係などの国際会議が開かれるコールムで行われます。
ニース市立歌劇場とモンペリエ国立歌劇場の共催で行われた、ヴェルディの歌劇「オベルト」は演奏会形式での公演だったので、演出付きの場合とは異なり、3日間程度の滞在でした。
オケ合わせが行われた初日には、劇場へ向かう途中、ニースの副監督と道程を共にしましたが、二人で道に迷ってしまい、また更に、やっと着いたものの楽屋口が何処なのか分からず、間一髪、リハーサル開始の時間に危うく遅れるところでした。しかしそれにしても、見ず知らずの町で道に迷うのは、あまり気分の良いものではありませんね。

ナンシー、オペラ座 Opéra de Nancy

Opéra de Nancy 僕がナンシーのオペラ座に赴いたのは、1996年11月の事で、フランスの有名なソプラノ歌手、ジャクリーヌ・ブリュメールの誕生日を祝うガラ・コンサートでした。
当日は僕を含め3人が今後を期待される歌手として出演させて頂きましたが、彼女の現役時代に相手役をよく務めたテノールのアラン・ヴァンゾ等も出演し誕生日を祝いました。
その後、ブリュメールが2000年、ヴァンゾが2002年に亡くなりましたが、コンサート終了後にヴァンゾが「お若いの、ガンバレよ!」と励ましてくれた事を今でも覚えています。

ルアン、オペラ座 Opéra de Rouen

Opéra de Rouen ルアンはジャンヌ・ダルクが処刑された町として有名ですが、僕がルアンに赴いたのは、1996/97年のシーズンで、ヤナーチェクの歌劇「死者の家から」に出演の為でした。
ルアンの劇場の正式名称は Théâtre des Arts と言い、直訳すると芸術劇場となります。僕が行った頃は座付き合唱団もありましたが、その後の劇場改編に伴い解散を余儀なくされました。解散反対運動に僕も署名しましたが、突然の出来事にショックを受けたことを覚えています。

リヨン国立歌劇場 Opéra National de Lyon

Opéra National de Lyon 僕が初めてリヨン国立歌劇場のオーディションを受けたのは、まだミラノに住んでいた頃で1992年の正月の事でした。
前年の12月30日に電報で急遽オーディションの知らせを受け取り赴きましたが、当時、同劇場は改装工事の最中で、公演は主にオーディトリウムで行われていたので、オーディションもそこで行われました。
その時はアリアを2曲歌った後、プッチーニの歌劇の中のある役を歌わされました。僕はその役がレパートリーだったので特に問題ありませんでしたが、その日伴奏してくれたピアニストはお世辞にも上手とは言えませんでした。
オーディション終了後、ディレクターから必要な時には連絡しますと言う返事をもらい帰路に付きましたが、その後、秘書から送られてきた手紙には、無情にも「あなたにあげられる役はうちの劇場にはありません」と言う内容のものでした。今思うと信じられないような話ですが、その後数年間はリヨンにはまるで足が向きませんでした。

その後、ニースのオペラ座を辞めてあちこちで仕事するようになった時に、仲間の数人から薦められてコーラスのオーディションを受けました。その時はグラースで「メサイア」の本番があったので飛行機での往復でしたが、オーディションを受けたすぐ後に2つの演目の契約を結びました。始めはエキストラとしてでしたが、合唱指揮者の勧めで正式に入団する為のコンクールを受け、それ以来もうすぐ丸10年になります。劇場上層部も数回入れ替わり、あの時の秘書も数年前にいなくなりました。今迄、コンサート、オペラで幾度となくソロを歌わせて頂きましたが、次はプッチーニの歌劇「外套」です。

ラヴェンナ、アリギエーリ劇場 Teatro Alighieri

Teatro Alighieri イタリアのアドリア海側にあるラヴェンナで毎夏開催されるフェスディバルには、1998年にリヨン国立歌劇場の一員として参加しました。
プロコフィエフの歌劇「3つのオレンジの恋」は、パートが細部に分かれてるのでしばしば合唱パートとは区別されます。僕が歌ったのはリリックと言うパートで、ソプラノとテノールの数人によるグループですが、最終幕は僕を含む2人だけでした。
貴賓席には市長を始めとする要人が招待されていましたが、各グループが客席から登場するという演出で、しかもリリックはその貴賓席から登場しなければならなかったので、開演前に市長や側近の方にその旨を説明しました。そうでもしないと、いきなり取り押さえられたりし兼ねないですからね。こんな時は言葉が通じると少しは役立ちます。

 

 

つづく...